満州からの引き揚げ体験記@家人さん

 「山」とも「猫」とも関係の無い「満州開拓団戦後引き揚げ」のお話です。興味の無い方はスル~して下さいませ。














 「私の体験記、満州からの引き揚げ、避難生活」


 ロシヤとの戦争突発のため、今日も安全な場所を求めて、山の中を隠れながら、ぞろぞろと長い行列が続く。

 八年前祖国日本を後に、満州に開拓団として入植し、ようやく生活も安定して、楽しい楽しい毎日でしたのに。





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 ロシヤ宣戦、避難準備

 忘れもしません。昭和二十年八月八日の夜から飛行機が、頭上をさかんに飛ぶようになりました。戦争とも知らず、日本の飛行機が練習しているものとばかり思い、私たちは学校に行く時、万歳をしておりました。

 九日、お昼ごろ学校の窓から、私たち子供たちは窓から皆で顔を出して、十キロ位離れた駅の方面に爆弾を、投下するのを見て「本物そっくり」だ、「うまいうまい」と手を叩いて喜んでいました。

 十日、今日もいつもの通り学校に行って二時間目の時です。一機の飛行機が、学校の屋根すれすれの所を、飛んで行きました。

 「今のはロシヤのマークの飛行機だ」先生の声、「まさかとおもったがロシヤとも戦争が始まったのだった。」先生の顔は真っ青です。「皆さんすぐ家に帰り家の人達に教えるように」、これが先生との最後の別れです。私も今、思えば学校生活最後の日だった。

 私たち同じ部落の友達と一諸に四キロの道を走って帰った。途中、父と出会い、「本部からの呼び出しで、今から緊急会議の為、本部に行く所だ」と、急ぎ足で通り過ぎていった。

 後から知った事だったが、関東軍の偉い人たちは、皆列車で逃げてしまい、残った人達は、下級の兵隊さんと我々開拓民だけだったとか。

 父に、「ロシヤと戦争が始まったんだって」と言っても、本気にしません。「うそだ」と笑って通り過ぎて行きました。家の人達も皆同じです。

 やがて父が青い顔して戻ってきました。お昼頃だったと思います。「ロシヤとの戦争は本当だ、警察や兵隊達は、開拓民には何も教えず、一足先に、皆、列車で避難して誰も居ない、俺たちもすぐ支度をして避難をしないと、今にも爆弾が落とされる」。





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 避難開始

 みんなの驚きと悲しみ。その日の午後からあわただしく支度をして、着物や食べ物を南京袋に詰め、それを馬車に積む。家畜は全部小屋から出して、帰れないかもしれない家の窓や入り口は板で釘詰にして、住み慣れた家を後にしたのは、赤い夕日が沈んでからだと思う。

 その時、※※部落では二十戸だったが、大人の男は皆兵隊にとられて、五人しか残って居なかったと思います。幸い父は残って居ました。悲しみと恐ろしさの為、誰も話をする人はおりません。ただ、黙々と歩くだけ。

 私たち家族は九人、父母、祖父、兄(蔵十七歳)、姉(十四歳)、弟(三歳)と、小学一年生の弟、三年生の妹、私は五年生でした。

 「ボツリ」から汽車に乗れるとの事で、ただ一つの望みで来てみれば、町は炎々と火の海。今思えば、十五日「終戦の日」だったと思います。

 皆が、がっかりしてそこに座り込んでしまいました。「仕方がない。皆、元気を出して、また歩くのだ」。と、励まし合いながら立ち上がろうとした時です。
 激しく鉄砲の音が聞こえてきた。匪賊の襲撃です。でも幸い兵隊さんが居て、兵隊さんが戦ってくれたので助かりました。

 ほっとしたのも、つかの間。今度は、ロシヤの飛行機の爆弾が落ちてくる、弾が飛んでくる・・・、目も当てられない有様です。私の足元にも弾が飛んできて、土にプスッープスッーと、刺さるのがよく判った。

 しばらくは生きた心地もなく、道路の小さな橋の下で、土にしがみついておりました。

 ロシヤの飛行機は爆弾と弾丸を使い果たすと、何処ともなく立ち去っていった。橋の下から出てみたら、トラックは、火だるま。あたりは暗いほどの土煙、親が子を探す声、子が泣き叫ぶ声、馬は哀れにも死んでいるもの、脇腹から腸が飛び出して立っている馬。そのそばで、満人が、オンオン、泣いているのでした。本当に地獄のようです。

 幸い、私たち家族は皆無事でした。が、祖父の姿が見えないので探したら、道の真中で、自分の家の馬の手綱を取って、仁王立ちになって「俺はこの馬が居なければ生きてゆけぬ」と立っていたので安心しました。

 その時、隣の家の仲の良かった※子さんが、怪我した馬の引く馬車に引かれて、足に怪我をしてしまいました。

 それから五日ばかりの夜行軍です。そのようにして、ある時は、草を被って野宿したり、雨の降る夜、岩の上で夜を明かしたり。食べる物も、米はとうに無くなっておりました。
 幸いにも、馬鈴薯や玉蜀黍ができていたので、満人の畑か開拓民のものか判らないが、それを採って、煮る時間がない時は生で食べながら歩きました。

 二十日位歩いたと思う。途中、色んな事がありました。一番に頭に残って居るのは、もうこれ以上、女子供は無理だと言う事で、自分の銃を突きつけて殺していた。母は、そんな事を子供に見せたくなかったのだと思います。「見ては駄目」と、毛布を被せてくれましたが、すぐ近くで、パンパンと音がしていた。

 「どうせ死ぬならこんな所より、もっと綺麗な静かな所で」との事で、部落の人達と山の中に入ってき、最後の晩餐、食べ物を皆で出し合って食べました。
 そこへ兵隊さんが通りがかり、話を聞いて、「早まるな、死ぬ時は何時でも死ねる。一緒に行くんだ』と、諭されて、思い留まったのでした。

 途中に、兵隊さん・避難民の人達が、そのままで死んでいた。土が、いくらか掛けて土饅頭になっているのはまだ良い方です。いつも死体を見慣れていても、大きい川の中に大勢の人が重なりあって、死んでいるのには、皆びっくりしました。






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 牡丹江川の鉄橋


 今思えば、確かに牡丹江川だと思います。食べる物も、とっくに無くなってしまいました。ニドカシで「これより先は牡丹江川で、橋が無く鉄橋が有るだけで、馬は引いて行けない。馬は捨てるしかない。」
 部落の人の馬が五、六頭残っていたかと思います。色んな面で世話になって、苦労を共にして来た馬だが、仕方がなかった。幸いな事に、親切な朝鮮の人が居て、一頭は肉にして、その肉を塩が無いのでただ茹でて食べました。ご免なさい。久し振りのご馳走でした。

 そこで一晩、軒下を借りて過ごす。朝早く起きて、皆で持てるだけの荷物を背負い、出発。一番下の弟を、兄がリックサックの上にチョコンと乗せた光景をはっきりと覚えています。

 まもなく、大きな川の前に出ました。なるほど、鉄橋しか無く、川の上に鉄の柱が四本立っているだけ。鉄の棒を二本渡し、その上に枕木を並べただけの、簡単なものだったと思います。

 一度に皆で渡れば狙い撃ちにされるとの事で、一家族づつ別々に、向かう岸に。前の家族が着いたら、次の家族という間隔で渡る事になった。
 いよいよ私達の番。川幅が広いので、急な流れでは無かったが、父が先頭で「下を見ては駄目だ、前を見て進むのだ」と励まされて、どうにか渡り終わりました。

 でも、誰だか名前は解りませんが、赤い着物を着た女の子が流されて行くのが見えました。その赤い着物が何時までも目に焼き付いて離れません。後で聞いた話ですが、自分の子供を突き落としたらしい。




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 武装解除

 お昼頃だと思います。ロシヤの飛行機一機が飛んで来た。「暫く飛行機は見なかったのに」と、皆、土手の影に隠れた。爆弾は落とさずに紙切れが降って来たので、変だと思っていたら、兵隊さんが来て「戦争はずっと前に終わったのだ。日本は負けた」。
 兵隊さんや大人の人たちは、そこに座り込んでしまいました。関東軍の司令官や警察の人達は、開拓民や前線の兵隊さん達には何も告げず、自分達だけ安全な場所に汽車で逃げたのだとか。

 何はともあれ、これで汽車に乗って内地に帰れると、私達、子供達は大喜びです。そこで武装解除になり、兵隊さん達の階級章は剥ぎとられ、勿論、銃や剣も山のように積み上げられていました。
 私達避難民の人達の、ナイフや包丁などもとりあげられてしまいました。内地に帰れると思ったのもつかの間、ロシヤ軍の捕虜になったのです。
 兵隊さんと避難民は別々です。汽車にも乗せられず、線路の上を、日本の兵隊さん達は最前列と最後列をロシヤの兵隊に監視されて歩いていた。でも、私達一般の人達は自由行動なので助かった。

 一週間ばかり歩かされて、ハイリンに四、五日収容され、それから又十日位歩かされたと思います。今度収容された所はラコオでした。そこで風呂らしきものに入った。テントの中で、上から生暖かいお湯が降る感じ。それでよく風邪をひかなかったものです。

 ラコオで二週間位、テントの収容所に足止めをくわされ、二日位また線路を歩かされて、ようやく牡丹江に辿り着きました。其の間粟飯をすこし与えられただけです。

 ラコオ出て間もなく、私達皆で一休みして居る間に、兄がおんぶをしていた弟を降ろして、「様子を見てくるから」と一足先に歩きだしました。何時もの事なのでさほど気にも留めなかった。が、妹弟の面倒をよく見てくれた兄との、これが最後の別れでした。

 牡丹江から、夢にまで見た汽車に乗せられて、南下を始めました。汽車と言っても、それも貨物列車で屋根の無い無蓋車です。途中、畑の中で停まったと思ったら、夜だったので分からないが、満人かロシヤの兵隊だか、追い剥ぎにあったりもしました。

 ハルピンの駅に一晩泊まり、其処で屋根のある貨車に乗り換えて、新京まで南下しました。屋根があるといっても、石の積んである貨物列車てす。背中やお尻が痛くて、眠る事が出来ませんでした。



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 新京の冬

 三日、四日はかかったと思います。新京に着き、ひとまずそこで降り、駅前に大きな学校が避難民の人達の収容先とされていたのです。そこに ※※※開拓団の※※団長さんが「※※屯の人はいないかと」探しに来てくれたのです。
 ※※団長さんは軍隊での中隊長だったので、避難民になってからは、元日本の兵舎を確保して、開拓団員が来るのを待って居てくれたそうです。

 駅からはだいぶ離れていて、一日歩いたと覚えています。食べる物もコウリャン、アワ、玉蜀黍、大豆、色んな雑穀類があったような気がしました。

 最初のうちは、着替えも布団毛布もなく、カマスや南京袋を被って寝た。風呂もドラムカンで沸かして、十日おき位に入る事が出来ました。
 私たち家族が、幸いしたのは、父が農産加工の知識があった為、石臼で粉にして団子やパン作り。大豆で、豆呉を引いて呉汁を作り、団員の皆に配給しました。それで皆、大分助かったと思う。
 この時ほど団長さんを有難く感じたことはありません。私と妹二人で石臼で粉を引いたり、豆を挽くのを手伝いました。

 正月も無事に過ぎて、一安心。が、このあたりから、発疹チフスが広がり始めました。十畳位の部屋に十二・三人の人が寝て居るので、一人が病気になれば、皆伝染してしまいます。一日に何百人もの人が亡くなって行くのです。

 その頃、母が妊娠して、女の子を産んだが、母も産後すぐにチフスになった為、お乳出ない。私が、赤ちゃんに、粉で薄い糊を作って飲ませてやったけれども、一週間位の命でした。名前は「幸子」と命名しました。

 それから間も無く、祖父が亡くなったのです。

 医者にも診せる事もできず、薬も飲ませる事も出来ずに。本当に可哀想に、私達子供も、大声で泣きました。新京で、避難民のお墓を大分広く作ったそうですが、それでは足りずに、別の所にも作ったと聞きました。まだまだ、畑の端とか野原の中に、埋めてあるのが目に止まりました。

 私達も皆チフスに掛かりましたが、無事に生きながらえる事ができました。

 寒くて苦しい冬も過ぎて、四月の初め頃だと思います。身体の弱かった姉が、チフスにも掛からずに頑張って、冬を乗り越えて来たのに、急に悪くなってしまい、あの世に逝ってしまったのです。

 それから暖かくなり、開拓団から家族別々に、自分で食べる分は自分で働く為に、私達一家は、満人の所に住み込みで働きに行きました。
 父は畑仕事、母は洗濯やら畑の草取り、私と妹は豚の番をした。(満州では豚を野原に昼間は離し飼いにする)。一ヶ月の報酬は、食べた分と他に、妹は三十円、私は五十円貰いました。元は満人を使っていたのに、今度は反対になりました。

 唯一、引き揚げ命令が来るのを楽しみに、働き続けました。家は古い家だったが、一軒与えられたと思います。弟達は父母と一緒の家で、ご飯を食べていました。夜は、収容所よりは、家の人達だけなので、ゆっくり眠る事が出来ました。



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 引き揚げ命令

 昭和二十一年七月十一日、待ちに待った引揚げ命令が出ました。それから収容所に戻って、慌しく支度をしました。高粱が少し残って居たので、それを粉して乾パンを作り、団員の人達に配ったり、皆で手分けし、旅の食べ物にしようとの事です。一週間位掛かったかと思う。

 お金も、二ヶ月ばかり皆で働いたので、大分貯まったようでした。亡くなった祖父と姉・、生まれて母乳も飲まずに死んで逝った幸子のお墓に、お骨にして連れて帰れないお詫びをして、土を持って帰りました。

 無蓋車で南新京駅を発ち、途中奉天に下車したりして、一週間位掛かったかと思います。コロ島につきました。

 そこで、いろいろ面倒な手続きやら身体検査を受けたりして、お金は千円以上駄目だとかで、多い人は皆没収された。が、母は、確か弟の服の下に括り付けたので大丈夫でした。

 二十四日のお昼頃だと思います。いよいよ乗船が始まりました。船は元日本の貨物船だとかで、大きな船で、船底が五階か六階に区切られていました。

 乗った人、三千五、六百人、皆の喜びは大変なものです。とても口や筆では言い表す事は出来ません。






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 四十日間の船上生活

 やがて出船のドラが鳴り、船は岸壁を静かに離れました。

 懐かしの故郷、苦しい事もあったけど、楽しかった※※屯の生活。あの家は満人が使っていて呉れたら好いのだが。鶏は羊や牛は死んでしまったか、それとも満人に引き取られて可愛がられているかも。
 ※※山には真っ赤な姫百合の花が咲いている事だろう。

 祖父も姉も幾万、幾十万人の同胞の眠る満州よ、サヨウナラ。※※屯を出る時、九人だった家族が今は六人、途中ではぐれた兄さんは、何時か新京の私達のところへ尋ねて来るかと、心待ちしていましたが、とうとう駄目でした。

 船は今、白波を立てて、三千五百余名の同胞の悲しみや嘆きを、そして、帰国の大きな喜びを乗せてひた走りに、祖国日本へと急いでいます。やがて満州も遠くなり、見えなくなってしまいました。

 何も見えなくなると、お祖父さん、兄さん、姉さん、幸子、※※屯のお墓に残して来た「姉妹」の事が、悲しく胸に甦って来ました。
 真っ赤に燃える雲が一つ、静かに流れています。あの雲の上には、きっと、苦しく悲しい思いをして亡くなった人達の魂が乗り合って、祖国日本に帰る姿ではないかと思うと、涙がとめどなく流れるのです。

 三日位たって日本の島影が見えて来ました。いよいよ日本に着いたのです。皆甲板に駆け上がったのです。明日は上陸なので、佐世保港外に停泊しました。
 船の中で一人、一人の身体検査をしたところ、コレラ菌を持ってる人がいるので、全員上陸禁止となったのです。

 暑い船の中で、食べ物は、小さいお茶碗に雑炊か、お粥が八文目位です。たまにカンパンが配給になって、喜んで食べてしまうと、それはお昼の食べる分だとかで、昼は飯抜きなのです。水も配給、おまけに船底なので昼夜通して暑く、夜は甲板で寝る。

 嵐の時は凄かった。そんな時は、誰も食べる人が居ないので食べ物が沢山余ったのを覚えています。そんなこんなで栄養失調と暑さの為、何人かの人が亡くなっていきました。
 今も私の心に深く残っているのは、小さい子供が、階段を踏み外して、船底まで転落して逝った事。亡くなった人達は、皆水葬にした様です。

 四十日ばかりの船上生活。その間、船は沖に持って行かれて、遥か彼方に、島影が見えるだけだった。





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 帰国、故郷へ

 ようやく許可が降り、佐世保の港に上陸する事ができました。港に近い海軍の兵舎の跡だと思います。そこで二日ばかり居て、お金と故郷迄の切符、弁当のおにぎりを貰って、ぎゅうぎゅう詰の列車に乗って故郷に向かいました。

 母の実家に父が「今みんな元気で帰る」と電報を打ったらしい。あちら此方で乗り換えて、たしか三、四日かかり、途中の駅で、気を使った父が、母の実家へのお土産にと、葡萄を買ったのをよく覚えています。

 ようやく故郷の駅に着きました。其処には、叔母と叔父が、リヤカーを引いて、白いおにぎりを沢山持って、迎えに来てくれて居ました。そのおにぎりの美味しかった事。その味は今でも忘れられません。

 それから荷物と小さい子はリヤカーに乗せてもらい、のんびりした田舎道を帰りました。母方の祖父・祖母は、父母と手を取りあって喜んでいました。辛くて長く悲しい、満州からの避難生活がやっと終わりました。








 ↑・・・・・・・だったそうです。

 年寄りの話、最後までおつき合い戴き、有難うございます。


 






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この記事へのコメント

ハタノ
2010年09月09日 20:57
私はリアルな体験談を話してくれる人に今まで会えませんでした。祖父は50代、親父は40代で(どちらももちろん戦争とは関係なし)生涯を終えてしまっています。

お盆にキャタピラーという戦争の悲惨さを描いた映画を観たんですけど、考えてみると最近のことなんだなと。生まれる前なんだけど、ついこのあいだじゃないかと。そして、生まれる前のことなんだけど「忘れてはならん」のだど。

先日、女優、高橋恵子さんのルーツ、、というテレビを見た時も思いましたが、今も大変な時代ですが、明治後半から高度経済成長前夜まで、まさに時代の荒波の上を揺れる木の葉の如く生きて来た先人、彼らの敷いたレールにのほほんと乗っているんじゃねえかオレは。って思いました。
とりとめのないコメント失礼しました。
2010年09月09日 23:01
ハタノしゃん、くら~いお話におつき合い戴き有難うございます。
 貧農出身・当時の国策とはいえ、満人の家と耕地を接収して部落に入り込み物資の配給と言えば日本人のみの生活では、奪われ差別される満人の不満は想像を絶し、その爆発が敗戦を境にして開拓団の悲劇として現れた訳です。記事以外にで聞いた話では暖かいエピソードもちょこちょこと、あるのですけれどね。
 帰国後、日本国内での新開拓・開墾地の苦労こそ「本当の開拓だ」とのお話も聞きます。

 そんな訳で、週末は家事都合のお出かけ(笑)。次の機会にでも、ぜひ参加させてもらえば嬉しいですね。
甘納豆
2010年09月11日 08:41
おはようございます。
聞き語りとは思えぬ、リアルな描写です。
引き込まれるように読んでしまいました。
当時の人達のご苦労はとてもとても計り知れるものではありませんが、段々薄れ行く中で活字で残すことはすごく大事なことだと思います。
暖かいエピソードについても、帰国後のご苦労についても機会を見つけて是非ご紹介下さい。
実は自分も引揚者の1人です。中国の東北部からとのことですが、何せ生まれたばかりでしたので自分の記憶には1欠片も残っていません。
ただ、船上で死に掛けた時に打ったというペニシリン注射の跡が太腿にくっきり残っているだけです。
2010年09月13日 20:42
甘納豆様、戴いたコメントの反映が遅れて失礼しました。ご訪問戴き有難うございます。
 甘納豆様も引揚者でしたか!…。ご苦労、お察し申し上げます。
 記事は家人さんが原文入力、私が校閲・編集したまでで。家人さん一家は、開拓民の引揚げでも、運良く惨い事をしないで帰国できたので、今でもこのように話ができるのだと思います。引揚げの苦労・悲惨さを言いたくない・思い出したくない人達も沢山いますから。